中世ヨーロッパでは、およそ1000年にわたる各国の攻防を扱います。
その中でも注目すべきは、東ローマ帝国とフランク王国の動き、さらに現在のイギリスやドイツが形づくられる流れでしょう。
ヨーロッパよりも東側の国々との交流も盛んになるので、地域にあまりとらわれず、世界的な視点で歴史の流れをつかむようにしましょう。
この記事の内容
西ローマ帝国の滅亡と民族移動
ローマ帝国の北方、現在のスカンジナビア半島から北ドイツにかけては、ゲルマン人と呼ばれる民族が小国を築いていましたが、やがて数百年の時をかけて、ヨーロッパ東部の黒海北岸地方にまで南下しました。
西暦375年、この黒海北岸地域にアジアの騎馬民族が侵入すると、それに押される形でゲルマン人が西に向けて移動を始めます。
これが歴史上でも有名なゲルマン民族の大移動です。
しかし私たちの想像とは違って、何万という人々が一斉に移動を始めたわけではなく、移動はその後200年程度続く緩やかなものでした。
ゲルマン民族は西ローマ帝国に多く流入し、476年に西ローマ帝国が崩壊すると、その地にフランク王国、西ゴート王国、東ゴート王国などが建国されました。
その一方で東ローマ帝国は首都をコンスタンティノープルに定め、さらに繁栄を続けていました。
東ローマ帝国は徐々に西側諸国に圧力を加え、ユスティニアヌス帝の時代に東ゴート王国を滅ぼし、554年には西ゴート王国の南部を占領して、地中海を取り囲む全盛期のローマ帝国の再現に成功しました。
フランク王国の拡大
ヨーロッパ西部では、ゲルマン人の系統であるフランク族が、いくつかの部族に分かれて現在のフランス周辺を治めていました。
その中の一部族のリーダーであるクローヴィスは、周囲の部族を支配下に収め、500年頃にフランク王国メロヴィング朝を開きます。
この当時から中心地はパリでした。パリは日本の古都である京都よりも古いわけです。
7世紀はじめにフランク王国は分裂と統合を繰り返し、新たにフランク王国カロリング朝が登場します。
732年にはイベリア半島から侵入したイスラム勢力ウマイヤ朝を、当時の王カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、フランク王国は西ヨーロッパの覇者となりました。
さらにフランク王国には、中世ヨーロッパで最大の成功者の1人であるカール大帝が登場し、約30年に及ぶ征服戦争を経て、ヨーロッパの西半分を有する大国を出現させました。
ローマも手中にしたカール大帝は、当時のローマ教皇によりローマ皇帝として認められました。ちょうど西暦800年のことです。
歴史上では、このできごとを西ローマ帝国の再興と位置付けています。
カール大帝はカロリング・ルネサンスと呼ばれる文芸復興、軍制改革、政治改革、農業振興などのさまざまな政策を実行に移して、フランク王国は全盛期を迎えました。
しかし彼の死後、王国は内乱状態になり、ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)により王国は3つに分割され、それが現在のドイツ・フランス・イタリアの原型になりました。
イギリス・フランス・ドイツの成立
フランク王国が全盛を極めた頃、イギリスでは小国が互いに争う状況でしたが、その1国のアルフレッド大王が実質的にイギリスを統一します。
しかし今度はデンマーク王国がイギリスを征服し、デーン朝イングランドが成立(1016年)。
さらに北フランスの貴族ノルマンディ公がそれに代わり、1066年にノルマンディ公ウイリアムがイングランド王位に就き、ノルマン朝イングランドが誕生します。
分裂したフランク王国では、962年に東フランク王国がドイツ王国(のちの神聖ローマ帝国)となり、987年には西フランク王国がフランス王国(カペー朝)になります。
こうして現在のヨーロッパで中心となる3国が形成されたのです。
十字軍と戦乱の時代
A.D.392年にローマ帝国がキリスト教を国教に認定して以来、キリスト教はヨーロッパ各地に広まり、ローマ教皇は各国の王にも匹敵する権威を手にするようになりました。
13世紀はじめに現れたインノケンティウス3世の時代に、その権勢はピークを迎えます。
こうした社会情勢の中、イスラム教国からキリスト教の聖地エルサレムを奪還しようという動きが起こりました。
直接の原因は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が、セルジューク・トルコの侵攻に悩まされ、教皇ウルバヌス2世に助けを求めたことです。
それに応えてフランス・イタリアなどが中心になり、1096年に第1回十字軍の遠征が行われ、エルサレムの奪還に成功します。
十字軍の遠征は合計で7回、およそ180年間繰り返されましたが、最終的にはすべての拠点をイスラム勢力に奪われて、十字軍は失敗に終わりました。
13~15世紀のヨーロッパは、イスラム勢力やモンゴル帝国などの侵入を受け、それらとの戦いが長期にわたって各地で繰り返されました。
イギリスとフランスとの間で、百年戦争(1339年~)が起こったのもこの時代です。
ところが社会全体では、農業の振興により経済が成長し、各地で現在まで続くような都市が建設されました。
その発展を止めたのが、1347年に大流行した黒死病(ペスト)です。
この時にヨーロッパの人口は3分の1にまで減少したと言われています。
成長と混乱の時代だったヨーロッパの中世は、1453年にオスマン・トルコによって、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、ローマ帝国が完全に滅亡したことで終わりを迎えます。
テストではここがポイント!
1000年という長い期間を扱う中世の歴史では、ローマ帝国の分裂~ドイツ・フランス・イギリスなどの建国と発展という流れに沿って、歴史上の重要事項を整理するとよいでしょう。
また、イスラム勢力が盛んにヨーロッパに侵攻し、各地に国家を形成したほか、モンゴル帝国による侵攻もありました。
こうした周辺民族の歴史も、ヨーロッパ史と関連付けて頭に入れてください。
まとめ
細かいできごとまでまとめると、中世はあまりにも長すぎるので、全体を2つか3つに分けて考えたほうがいいかもしれません。
この時代に現代ヨーロッパの各国が誕生しますが、いずれも完全な中央集権国家とは言えず、日本の鎌倉~室町時代のように、諸侯による連合国家に近いものでした。
小さい国々がさらに細かくなって、それぞれに大事件を起こしたりケンカしたりするので、歴史を学ぶ立場からすると、非常に困った時代だと言えるでしょう。
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