鎌倉時代は日本の中世と呼ばれます。
ここからおよそ700年にわたって、日本は武士による政権が続きます。
鎌倉時代を攻略するポイントは、初の武士による政治の仕組みを理解することと、代表的な人物とできごとを関連づけて覚えることです。
非常に活動的で面白い時代なので、興味を持って学習に臨んでください。
この記事の内容
貴族政治の終わりと院政
武家政権が発足する前に、政治権力は貴族の手から再び皇族の手に戻ります。
これが白河上皇(しらかわじょうこう)から始まる院政(1086年~)です。ここから約100年間、上皇と天皇とが入り乱れ、そこに源氏と平氏が関わる不思議な時代が続きます。
院政の仕組みは複雑で、この当時天皇は若くして上皇(法皇)になり、その位を子に譲ってしまいました。
しかし実質的な権力は上皇が握り、その周辺で貴族や武士が連携するというシステムでした。
そのため同時期に複数の上皇や天皇が存在し、後に源平騒乱を引き起こすきっかけになりました。
院政で注目する点は、貴族の権力を弱体化させるために、荘園整理令(しょうえんせいりれい)を実行したことです。
これは不法な荘園を朝廷に返還させる制度であり、藤原氏も対象になるなど一定の成果を上げました。
平氏による武家政権
貴族の力が弱まると、上皇や天皇は武士の力を頼るようになります。
例えば2人の上皇が争うようになると、そこに天皇が加わり、武力面では武士が上皇を補佐します。
さらに貴族も加わると、非常に大きな組織が敵対することになります。
ただしこの時点では、まだ源氏対平氏という図式はできあがっていません。
この状況が一段と緊迫化して、ついに戦いにまで発展したのが保元の乱(ほうげんのらんー1156年)です。
ここで名声を高めた平清盛(たいら の きよもり)は、次の平治の乱(へいじのらんー1159年)で源氏を倒し、初めての武家政権を樹立したのです。
実際に清盛が福原(現在の神戸市)に築いた宮を中心に、平氏による幕府が誕生していたという説もあるくらいです。
鎌倉幕府の誕生
平氏の天下はわずか20年あまりしか続かず、1181年に清盛が亡くなると、源頼朝(みなもと の よりとも)により1185年に滅ぼされてしまいます。
この1185年に、頼朝は朝廷から守護(しゅご)・地頭(じとう)を全国に設置する権利を得ますが、現在ではこの事跡が鎌倉幕府の始まりと考えられています。
平氏の滅亡と言えば源義経(みなもと の よしつね)です。
・一の谷の戦い(いちのたにのたたかい・1184年)
・屋島の戦い(やしまのたたかい・1185年)
・壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい・1185年)
この順番で覚えておきましょう。
中世日本史のヒーローで、多くの日本人に愛される義経は、平氏滅亡後に頼朝から敵視されるようになり、ついには東北の平泉で命を奪われることになります。
頼朝はその勢いで東北に進出し、その地の権力者藤原氏(奥州藤原氏)をも滅ぼしています。
鎌倉幕府の基本原理
鎌倉時代の武士は御家人(ごけにん)と呼ばれ、個々に将軍との封建的主従関係を結んでいました。
それは御恩と奉公(ごおんとほうこう)という言葉に表されています。
御恩とは将軍が保証する土地の所有権であり、奉公とはそれに応えるための軍役などです。
将軍と御家人は土地を通じて結びついていたのです。
御家人は一族の中心である惣領(そうりょう)のもとで団結し、一門(いちもん)という血族集団を形成していました。
御家人の土地は代々子弟に分割相続される仕組みで、新しい土地を手に入れないと、代が変わるごとにそれぞれの土地は縮小します。
この仕組みが、最終的には鎌倉幕府滅亡の一因になるのです。
鎌倉時代の主なできごと
頼朝から続く源氏の将軍は、その子の源実朝(みなもと の さねとも)で絶えてしまいます。
その後も名目上の将軍職は残りますが、政治の実権は北条氏が独占する執権(しっけん)が握りました。
これが鎌倉幕府の代名詞にもなる執権政治です。
源氏の将軍が途絶えたタイミングで、それをチャンスと見た後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、承久の乱(じょうきゅうのらん・1221年)で幕府の転覆を狙いますが失敗。
かえって幕府の基礎を固める結果になってしまいます。
鎌倉時代以降の幕府政治では、「3代・5代・8代の法則」を覚えておきましょう。
将軍のような中心人物は、なぜか初代に続いて、これらの代が有名になるのです。
鎌倉時代の主なできごとも、この法則に当てはめて覚えましょう。
①3代執権:北条泰時(ほうじょう やすとき)=御成敗式目(ごせいばいしきもく)
その後室町時代まで武家が守るべき法律となったのが、北条泰時が制定した全51条の御成敗式目です。
主に土地の権利や相続に関する規定と、裁判に関する規定が盛り込まれています。
②8代執権:北条時宗(ほうじょう ときむね)=元寇(げんこう)
鎌倉中期には、当時モンゴル帝国の一部であった元(げん)が2度にわたって日本に襲来しました。
これが文永の役(ぶんえいのえき・1274年)と弘安の役(こうあんのえき・1281年)です。
その時の執権だった北条時宗は、元軍の襲来をいずれも退け、そのほとんどを壊滅させました。
テストではここがポイント!
鎌倉時代のできごとも、登場人物と関連づけて覚えましょう。
英語の文法のようにセットで基本を覚えてから、それぞれの細かい内容を頭に入れることがポイントです。
また、なぜ貴族政治から院政を経て武士の政権が登場したのか、当時の社会の様子や仕組みをもとに、理由を考えながら全体の流れをつかむようにしてください。
まとめ
貴族政治の終わりごろから、個性的な人物が次々に登場します。
しかしそれぞれに特徴がある人たちなので、意外に覚えやすいかもしれません。
正確な年代もはっきりしてきたので、年表には1185年や1221年などと、細かい数字も書き込んでおきましょう。
この時代に初めて日本は、外国からの本格的な侵略を経験しました。
以前は元軍に対して鎌倉武士は歯が立たず、ようやく神風という天候の急変によって命拾いしたと言われていました。
しかし近年の研究により、鎌倉武士は実力で元の攻撃をはね返したことが分かってきました。
元軍は2回とも、御家人の激しい反撃に遭い上陸すら難しかったようなのです。
こういう歴史の裏にも興味を持つと、歴史が楽しくなりますね。
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