鎌倉幕府と続いて登場する室町幕府は、政治機構などに多くの共通点があり、よく似た幕府で連続した時代に思えるかもしれません。
しかしそれぞれの幕府の性格は大きく異なります。
そのため鎌倉幕府と室町幕府を一緒に考えようとすると、この時代の特徴をつかむことはできません。
3つの幕府の中でもちょっと変わった室町幕府について、ここで理解を深めておきましょう。
幕府とは朝廷(天皇)から任命された征夷大将軍を中心とした武士の政治・政権のことです。幕府の時代も朝廷は存在しておりましたが実権は武士の側にありました。
この記事の内容
鎌倉幕府の衰退
鎌倉幕府は土地を仲介にした、幕府と御家人との契約関係が社会の基盤でした。
御家人が一族の繁栄を願うなら、戦いに勝利して新たな領地を増やす必要がありました。
しかし戦乱の時代は過ぎ去って、久しぶりに元に勝利したとはいえ、相手が国外では領地を獲得することもできません。
相続を重ねるごとに小さくなってゆく領地を見ながら、御家人の生活は徐々に苦しくなり、土地を売ったり借入をしたりすることが日常的になりました。
幕府は徳政令(とくせいれい)を発し、御家人の借入契約を破棄して、その土地を取り戻そうとしましたが、すでに事態は手遅れ。
土地を保証する能力を失った幕府は、急速に衰退して御家人からの信頼を完全に喪失してしまいます。
建武の新政(けんむのしんせい)
幕末のこの時代、天皇家は相変わらず後継者問題で争っていて、持明院統(じみょういんとう:後の北朝)と大覚寺統(だいかくじとう:後の南朝)とが対立していました。
その中で大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が、討幕のリーダーとなって活動を始めます。
この時代の武士の中には悪党と呼ばれて、守護に反抗したり納税を拒否したりする反幕府勢力が存在しました。
後醍醐天皇は護良親王(もりよししんのう)らの協力を得て、悪党の楠木正成(くすのき まさしげ)、御家人だった足利尊氏(あしかが たかうじ)などの軍勢を使い幕府を追い詰めます。
最終的には新田義貞(にった よしさだ)の兵が鎌倉に攻め込んで、鎌倉幕府は幕を閉じました。
こうして1333年に後醍醐天皇は、京都において天皇による政治を復活させます。これを建武の新政(けんむのしんせい)と呼びます。
天皇はまず重職に貴族(公家)たちを用い、土地制度を改革するなどの専制政治を断行しますが、これが武士たちには大不評で、わずか3年ほどで失敗に終わりました。
南北朝時代の始まり
1336年に、新政への反対勢力は足利尊氏を中心にまとまり、天皇側の楠木正成らの軍を破って天皇を降伏に追い込みます。
さらに足利尊氏は京都を制し、そこで新しい武士の政権室町幕府を開きます。
ところが、歴史はここから意外な展開を見せるのです。
後醍醐天皇という人物は不屈の闘志を持っていたようで、京都から脱出すると奈良県の吉野に移り、そこで京都とは別の朝廷を開いてしまいます。
ここから約60年に及び南北朝時代が続き、日本国内には2つの朝廷が並んで存在していました。
室町幕府は最初から大きな問題を抱えていました。
足利尊氏とその弟の足利直義との間で派閥争いが生じ、やがて幕府を2つに割っての衝突にまで発展、全国規模の内乱が起きてしまうのです。
この時、足利尊氏は理解不能の行動をとり、何と一時的に南朝政府に降伏してしまいました。
劣勢を挽回するための策だったようですが、北朝の代表者が敵対する南朝に降伏するとは信じられないことです。
この争いは観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれ、最後は尊氏が直義を倒して収束しますが、勢力的にははるかに劣っていた南朝が、この騒乱によって重みを増す結果になりました。
足利義満の政治
ここで再び「3代・5代・8代の法則」に登場してもらいましょう。
室町幕府の3代将軍である足利義満(あしかが よしみつ)の治世で、早くも幕府はピークを迎えます。
1392年に義満は南北朝の統一に成功します。(実際は策略により南朝を吸収しました。)
さらに幕府の実権を完全に握ると、優れた政治的手腕を振るい、当時中国を治めていた明(みん)との間で日明貿易(にちみんぼうえき)・勘合貿易(かんごうぼうえき)を発展させ、国力を高めることにも貢献しました。
1394年には武家として平清盛以来となる、太政大臣の位に就きました。
一説には天皇の位を狙っていたとも言われる義満ですが、後年は出家して野望を秘めたまま亡くなりました。
室町幕府の衰退
室町幕府には将軍のわきに管領(かんれい)という政治補佐役がいて、鎌倉府には鎌倉公方(かまくらくぼう)と関東管領(かんとうかんれい)が存在していました。
またこの時代は地域ごとに守護の権力が高まり、鎌倉幕府と比べると幕府自体の権威は低かったと言えます。
そのため強力な指導者だった義満がいなくなると、その後は8代将軍の足利義政(あしかが よしまさ)が文化を発展させたくらいで、将軍職は象徴的なものとなり、実権は管領職にある斯波氏(しばし)・細川氏(ほそかわし)・畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)などが握っていました。
やがて彼らの権力争いが激しくなり、応仁の乱(おうにんのらん)をきっかけに日本は戦国時代へと突入します。
テストではここがポイント!
ここまでは、鎌倉時代末期から室町時代後期までの流れを確認してきました。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の統一までは、さまざまな人物が複雑に絡み合い、天皇家の後継者争いなども加わって、日本の政治は大混乱に陥ります。
ここは主要なできごとと人物にポイントを絞って、大きな歴史の流れを見失わないようにしましょう。
まとめ
鎌倉時代には将軍に代わってNo.2の執権が政治を行い、室町幕府でも義満の死後は、No.2の管領職にあたる武家が実質的に政権を担っていました。
さらに日本という国のトップには、象徴的とはいえ天皇が存在していました。
このように複雑な階層構造で政治を行う国は、世界史では完全に常識外れです。
この後で登場する江戸時代も含めて、日本は昔から不思議な国だったのでしょう。
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